虚飾の花束


(2010.8.28最新追加)

S026

 じつに久しぶりに、この項目を追加更新することになった。「社会」については、すでに一定の“理会”にいたっており、これ以上、理念的な理解を進めることはないだろうと思っていた。だから、この項目からはずっと遠ざかったままでいた。
 だが、最近になって、少し考えが変わってきた。「社会」つまり「人間社会」と呼ばれるものを、もう少し掘り下げて考えてみたくなったのだ。
 なぜか?

 その直接のきっかけとなったのは、NWO思想への素朴な疑問と(国際的なさまざまな社会現象から読み取れる)その運動に対して急速に膨らんだ危機感によっている。
 また、アンチNWOのスタンスからだけでなく、本来のシゴトである章話制作を進めていくうちに、改めてその大切さに気づくことになった「命」と「共感」からも、人間社会とその抱える諸々の深刻な社会問題によりいっそう目がいくようになった。
 とりわけ「共感」については、その重要性を再認識した。物語を制作するにあたって、随所で「共感」の大切さを痛感しているうちに、たんに物語の主人公への(読み手の)一体化、すなわち感情移入といういわばピンポイントな狭い働きでけではなく、「共感」それ自体はもっと広汎で深い意味をもったものであることに気づいた。
 つまり「共感」は、人間によって構築された「社会」の基礎の基礎、いわば強固な岩盤にあたるものだという思いにいたった。
 そこでさらに調べてみると、「共感」という感情は、脳の働きでいえば、脳幹や視床下部(生物としての活動自体を統御する根本的な部分)に根ざしているらしい。これは脳の領域としては、恐怖などの生物進化的に古い感情とそう遠くない部分に位置しているそうだ。
 ここにおいて「共感」が、「恐怖」をその基本的な切り口としているNWO思想とも奇妙な対応が見てとれることがわかった。つまり、「共感」の保持とその拡大は、NWO思想と運動を阻止する力をもっていると私は直感(直観)したのだが、このことから、これからさき章話という物語制作を通して地上の安念を求めてゆくにあたっては、これまで以上に「人間社会」と「社会問題」を対象とした意識的なアプローチが必要であるという考えにいたった。

 さてそうなると、まずは話がぶれないように、「社会」という言葉そのものの定義をしておかなくてはならない。
 『大辞林』(三省堂)によると、「社会」は以下のように記述されている。
 (ただし、 weblio辞書での「社会」の検索による。以下は、weblio辞書からの一部引用)

しゃかい ―くわい 1 【社会】
〔福地桜痴による society の訳語〕
(1) (ア)生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互の関係。
「―を形成する」「―の一員」「全体―」
  (イ)同種の生物の個体間の相互関係や、それらのまとまり。
「ニホンザルの―」
(2)同じ傾向・性質、あるいは目的をもつ人々のまとまり。
「上流―」「都市―」
(3)(自立して生活していく場としての)世の中。世間。
「学校を卒業して―に出る」
(4)「社会科」の略。
「社会」に似た言葉

(引用終り)

 また、Wikipediaによる「社会」の説明については、「社会(しゃかい)は、人間と人間のあらゆる関係を指す。社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会までさまざまである」と説き起こしている。
 そしてさらに、「社会は広範かつ複雑な現象であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる」と、「1概要」の項目においてその解釈を深める。
 さらに、説明のための項目として、「2 語源」「3 歴史」「4 社会化 」「4.1 自我」「4.2 役割」「5 社会行為」「6 社会構造」「7 社会の領域 」「7.1 政治」「7.2 経済」と展開敷衍しているが、なるほど「社会」とは、多義性に富む概念であることがわかる。この言葉がまさに「社会」そのものである。
 個人的に注目したのは、語源的には「19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった」とのことである。ちなみに「社会」という言葉そのものは、societyの訳語として登場した、ということになっている。
 ほかに興味をそそる解説として、
 О「歴史」における「社会の起源は人間の本性に求めることができる」
 О「自我」における「社会の根本的な要素である人間の本性」
 О「社会行為」での「社会行為 (Social action) とは対象が他者である
  人間の行為を言い、日常的な会話から政治的な圧力まであらゆる行為が
  これに含まれる。(〜中略〜)行為の根本的な理由は欲求である」
 О「社会構造」での「近年、社会で認知された人間が生まれながらに持つ
  とされる自由な人権に対し、社会的にどこまで制限を加えることが可能か
  常に議論の対象となっており(〜以下略〜)」
  「人間の自発的な行為には常に責任が伴うとされている」
  「我々が共存している地球の許容にも限界があり、現代社会が抱える
  全ての社会問題には私達自身に解決する責務があると考えられている」
 О「社会の領域」での「政治や経済は社会の領域に所属するものであるが、
   政治や経済には社会を超えた原理が存在」

 Wikipediaの解説記事の記載者は不明であるが、書かれている内容については、浅学の私としては学ぶべきものがおおい。
 さて以上から、「社会」という多義性に富む言葉の定義を固めておこう。私が「章曲」の言説(断想)において使う「社会」とは「人間社会」を指すものであり、「人間社会」とは、個々の人間が〈自己〉であることを意識しながら同時に〈他者〉を容認し、〈他者〉たちと協調しながら共生する集まりである、としたい。
 したがって、自己意識を抑圧した没我的な人間集団(があるとすればそれ)はここでは「人間社会」とは呼ばず、したがって「社会」としての直接的な言及の対象とはしない。

 ところで最近私は、「ハイアーリアリズム」に基づく「多様共生」という理念モデルを、「社会」(=人間社会)の基本理念として定立できないか模索している。
 今後はこの観点から、この『社会に関して』の項目にも、章曲特有の自己完結的な夢想(良く言えば、本質への閃きに充ちた肉迫)を不定期に掲載してゆきたいと思う。
 ちなみに、「ハイアーリアリズム」と「多様共生」については、メインメニューの『特集』中の『2 ハイアーリアリズムの萌芽』の後段として、並行的に述べてゆきたいと思う。

 で、ついでに言えば、「多様共生」の概念は、現在、国際「社会」で猛威をふるっている「NWO」思想(とその運動)に対して結果的に(そして必然的に)、根底から対抗するものである。
 その際、上記「社会の領域」の「経済」の項目において、
「経済は社会の中で希少性や効用性を持つ価値を配分する機能の一つである。人間には生産力があり、労働を通じて自然に作用することができる。生産によって得られる資源を消費することで人間は生活している。かつてはこの一連の活動も社会交換によって社会の中で行われていたが、物々交換、貨幣を介した取引が行われるようになって市場が形成された。この市場は社会行為の相互作用でありながらも異なる経済の原理で作動するようになる。従って市場には社会全体に対して自動的に価値を配分する機能をあるていど持っていると考えられている」
 との言説は、現在、国際金融の分野において著しくこの機能が損なわれていると考えられることから、「多様共生」の実効性を考えるうえで、おおいに参考になると考えている。

 


(2003.12.28追加)

S025

 自己責任は、経済生活上はビッグバンによって鍛練され、教育的側面においては、自分で考える力とディベート、そして行動で示すことにより、育まれる。“和”の精神は結局情緒の域を出ず、思想としての骨格を有しない。

 

S024
 市民政治の定着のためには、市民社会の発展が必要である。市民社会とは自治能力を有した「社会」(人びとの集団)であり、市民とは自己責任の原則を貫ける人びとのことである。

 


(1998.8.16追加)

S023

 実業とは欲望の自己主張であり、その不断の闘争である。したがって、実業家は野心的かつ闘争的であり、往々にして「悪人」である。そうして、世界は彼らの精力によって動いている。

 

S022

 日本社会……過剰な情報乱舞と共同体羈束の頑強さ。見せかけの広がり(自由幻想)と実質的隷属。

 


(1998.7.6追加)

S021

 10代半ばの少年少女たちはすでに胸ふかく悪を抱えこんでいる。彼らは思春期の疾風怒涛のさなかにあるのだが、それはあまりに危ういために、美しくはあるけれど悪も容易にはびこる。
 いじめる者といじめられる者。仲間はずれ。陰口。私刑。登校拒否。万引き。家出。喫煙。飲酒。ドラッグ。家庭内暴力。校内暴力。暴走。恐喝。売春。強姦。親子の絶望的な不和。子どもを遺棄する親。情緒不安と自殺。どれをとっても大人たちの影の領域にほかならないが、これをすでに彼らはもっている。
 超密着型の集団主義社会を生きるミドル・ティーンたちよ。君たちの脳裡に悪ははやくも開花しつつある。悪はおそらく“ものごころ”ついたとき(自意識あるいは個体意識を有したとき)に芽吹くのではあるまいか。そして、10代半ばの疾風怒涛を凌いだときに完成されるのではあるまいか。

 


(1998.6.22追加)

S020

 いま日本社会が半・自我のまま「個人主義」に移行しつつある。この「個人主義」は多くの日本人にとっては「利己主義」と同義である。それは独善と自己満足であり、どちらも強固な自己愛に支えられている。われわれの世代は貧弱な自我の周りに自己愛の砦を張りめぐらして生きている。そうでない者は旧態依然とした集団主義の渦中に身をおき、同じく貧弱な自我を他者との間隙に流し込もうと努めている。つまるところ、われわれはそのような世代なのだ。

※貧弱な自我とは、例えば徹底したディベートができないか、あるいはそれに耐えられない自我のことを指しています。また、われわれの世代とは、昭和30年プラマイ3年に生まれた人々をイメージしています。
 


(1998.5.24追加)

S019

 日本人にとって「性格」という語は、日本教徒としての信心深さを示す尺度となっている。それは「いい」と「わるい」に大別され、その判断の基礎をなすものは「協調性」という名の集団主義の指標である。

※ 「日本教徒」とは山本七平氏のいうところのものです。
 


(1998.5.10追加)

S018

 (人間の共同生活における)形式尊重は、窮屈な鮨詰めの共同生活をしている人々にとっては、破壊的な不和を予防する社交的絶縁体にすぎないものである。(ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家』より)

 

S017

 大衆的逆上沙汰(江戸末期の「ええじゃないか」など)は一種の模擬的反抗であり、厳重な社会的拘束や抑圧に対して漠然と表明された抗議であり、要するに物憂く単調な生存からの束の間の解放であったと思われる。(ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家』より)

※忘れられた思想家とは安藤昌益のことです。

 


(1998.4.15追加)

S016

 日本人の好きな“敗北の美学”----勝利の華やかさのなかに儚さを観る----はたぶん、極東の島国のなかで、水を必須とした稲作中心の農耕生活をおくるなかで培われたものだと思う。その中心的なエトスは“折れること”である。自らの欲求を貫くことを押し殺して、帰属する集団のために奉仕する。それが結局のところ自らの益となる。自己の益(ホンネ)を獲得するためには集団の益(タテマエ)を尊重すること----これが日本人の基本的な精神構造となっている。つまり、二重の価値によって律せられた構造(ダブルバインド)である。“敗北の美学”も“諦めの美学”もそこから派生する。

 

S015

 「上昇志向は希薄だけれど、“落ちこぼれ”への怖れはつよい。この怖れが行動にかりたてる。他人は他人、おれはおれ、ということは絶対にない。みんな一緒に動かないと安心しておれない。で、上の人は引きずり降ろしても、横一線に並びたがるものなのだ。」(ある日の『商工リサーチ』の記事より)
 これはまさに熊本人の特質を言い当てているが、そのエトス(行動様式)の淵源は、ひとえに狭量な発想にあると思われる。あまり狭すぎる。意固地なほどに。明治維新のときにすぐれた活躍ができなかったのも、この狭量な足のひっぱりあいからきている。それはあの明哲、横井小楠をながく郷里に蟄居させていたことからも充分にうかがえる。

(※)いま思うに、これは熊本だけの特質ではないですね。おおむね全国的な傾向でしょう。
 


(1998.3.26追加)

S014

 個人として生動し欲動する人間と、社会構成員として生活し、あるいは欲動する「人間」類。その彼岸にミクロコスモスの原野がひろがる。

 

S013

 日本人は植物的である。しかし、それは食中植物である。食物連鎖と共生の狭間を生きる者たちよ。

 

S012

 市民生活レベルでは、欲望の発露は制限されている。しかし、支配階層のレベルでは、欲望が(ことに権力への欲望が)剥き出しになる。社会秩序が乱れた場合には、市民生活レベルでも欲望が剥き出しになり、往々にして大パニックに陥る。

 

S011

 侵略と殺戮の歴史。資本増殖と軍事強大化への途。共喰い世紀から共倒れの時代へ。
 食物連鎖の頂点にある人間は、雑食の典型であり、のみならず、共喰いを運命づけられている。それは直接の人肉嗜食ではなく、経済圏の拡大(生活の繁栄)のための人間による人間の侵略であり、殺戮であり、支配である。いまや共喰いの時代は核兵器時代を迎えて、皮肉にも共倒れの時代へと至った。

 


(1998.3.1携出)

S010

 都市は、意識が外化した物象的機能世界(社会)である。

 

S009

 日本人の「全体」への「甘え」は、西欧では「神」への「信仰」という一対一対応の依存関係にあたる。

 

S008

 ある種の“甘え”あるいは“弱さ”のひかえめな「ひけらかし」。けれど、彼らはいつまでもそうしてはいられない。やがて、(いやおうなく)彼らは強くなっていく。そうしなければならないからだ。そのために彼らはまず、鈍くなる(ことを学ぶ)。 

 

S007

 大学----社会へ自らをコード化するまえのワンクッション。つまり、モラトリアム学園。社会の動的混沌のなかで、個(人)は記号へと転落していく。労働単位であり、消費単位であり、喜遊する記号である。
 記号的個にとって、喜遊こそが自己充足の空間であり、苦悩やその他多くのマイナーな心裡動すらも、その空間に包摂される。

 

S006

 太古のある時期に、一粒の“悪”の種がまかれた。それは瞬く間に、人類を地上のもっとも呪われた生き物にした。人類はその“悪”のために文明を構築せざるをえなかったのである。いま地上には、その“悪”がかつてないほど巨大な規模で蠢いている。

 

S005

 夜の都会。イルミネーションだけが真実だ。つまり…、虚飾の花束。

 

S004

 煽動のイロハ
(1) まず、ひとびとの知っている事実を述べる。
(2) それによって自分たちの立場を固め、有利になるような事実を選び、枠付け(視点の問題)・価値付けをし、抽象化する。
(3) 仲間の行動を称え、敵の行動をけなし、団結を固める。
(4) ひとびとの知らない事実を報告し、敵に対する怒り・正義感を燃えたたせ、あるいは、要求の正当性を裏づける。
(5) かくして煽動者は、自分の考え・方針を派手に喧伝する。

 

S003

 現代人(とくに20代以下の若者)は内省を好まない。というのは、内省によって重くなるからだ。何が? もちろん気持ち(情態)が。ところが、周囲(社会)は彼らの心的情態に関係なく動いている。速やかに流れ、回転している----情報が、商品が、金が。そんな中で“重く”なると、その流れに着いて行けなくなる。置いてけぼりをくらい、ますます沈みこんでしまう。それは都会生活社にとっては大きな不安であり、避けていたいことなのだ。だから、内省を好まない。
 彼らは社会変化のスピードに合わせて軽快に動いていなければならない。心的情態を軽めに保っていることが必要であり、浮子(うき)のように水面に浮き、ともに流れていなければならないのだ。そうしなければ、ストレスの重圧によって窒息死するだろう。

 

S002

 都会には人間が稠密し、その人間たちの押し隠した性欲が累積し、かくして街角はセクシーな疼きを呈し、彼らは昼間の苦痛を夜、必死に癒そうと努め、街の深夜は奇妙な光で彩られる。ああ、発情の街並よ。

 

S001

 都会----それは「人工」の坩堝。あらゆるものが不完全に完成し、それゆえに強度の危険を孕みつつ流れる。人びとも例外ではない。いや、人びとこそまさしくそうなのである。人びとの内包する危険性ゆえに彼らは都会に惹かれる。絶えず開かれ流動する都会の空間こそ、人びとの脆弱な存在を蔽い隠す格好の場所となる。

  inserted by FC2 system