社会のこと

    (目 次)

  1. 「滅私奉公」のエトス
  2. 所沢ダイオキシン騒動
  3. ポストバブルの生きがい
  4. スギ花粉と排気ガス
  5. メモ: 泡沫の国「日本」
  6. 「夢」の危うさ
  7. 本が売れないわけ
  8. インターネットとSOHO
  9. 「産業の発展」とゆとりある生活
  10. 2000年問題
  11. ホスピタリティー
  12. ヒトゲノム計画は幸福の使者か
  13. 女性の時代

「滅私奉公」のエトス

 「企業が年功序列、終身雇用を放棄することは、決して社会を良くしない」ですか。意義深いことばだと思います。いのさんのような現役バリバリの企業人の口からでるそのことばは、実に重みがあります。なんといっても、みんなで水を「もやい」ながら、一斉に田植えをし、一斉に稲刈りをしてきた(3千年も営々と! 四季の移ろいを肌身で感じながら、ときにはせき立てられるように…!)民族ですからネ(^ ^)

 それに比べれば、重工業化・高度情報化などごくごく最近の出来事にすぎません。だから、日本型風土(一年中いつでも種まきゃいいわけではない)の中での稲作の伝統にもとづいた集団主義的エトスが、消え去るはずはありません。でも、そのエトスの上に立った企業の日本型雇用制度は、サラリーマンの「安心」の代わりに「滅私奉公」つまり所属集団への絶対的な帰依を「暗に」要求します。これが、かのウォルフレンのいう「人間を幸福にしないシステム」の実体ですし、経済戦略会議のいう「過度に平等・公平を重んじる日本型社会システム」へと直結しているコアでもあります。

 「滅私奉公」のエトスはいまでも死んではいません。社会の変転に幻惑されて影をひそめているだけです。日本型集団主義におけるコアがこの「滅私奉公」のエトスでありますから、「中心が空洞化した」印象を与えるわけです。では誰のための「滅私奉公」なのか。それは、終身雇用で給料を、年功序列で昇進を保証してくれる会社であり、あるいは、自分の願望(親としての見栄や自分の果たせなかった夢)を投影したわが子であります。戦前はそれが天皇であり、「家」でありました。さて、ここでぼくが言いたいのは、お分かりかとは 思いますが、個人のもつ能力を余すところなく発揮できる者を見いだし、彼・彼女をもり立てていくという姿勢です。集団主義の強い社会では、このような人は必ず足を引っ張られ、平均化され、潰されていきます。

 しかし、日本人がこれからも世界の高・高度情報社会のなかで「先進」的な地位を占めていくためには、みんな仲良くこの島国で、ソコソコ底上げしていきましょう、だけでは所詮無理なのです。じわりじわりと劣後していくだけなのです。というのも、 日本の集団主義的エトス(=「和」の精神[イデオロギー])は、残念ながら米欧中心の「世界」の中では、彼らの言うように、やはりあまりに「異質」すぎるのです。東南アジアにおいては、ひょっとして「アジア主義」の基本イデオロギーになるかもしれませんが、最終的にはアメリカが許さないか、防衛も含めて突き放される(中国と手を結んで圧迫される)でしょう。 それがいいことか悪いことかは「未来の歴史のみぞ知る」です(^ ^)

 で、話をもとに戻しますと、日本がいまとるべき中長期的世界戦略として、現在の米主導型グローバル・スタンダードの攻勢に抗するためには、彼らの衣服を着るということです。これは日本のお家芸なのでなんなくできます。それをしようとしないのは、現状に甘んじ自己変革に怠慢であること、相手の恐るべき力を充分把握していないこと、国内のしかも身近なゴタゴタにしか目が向いていないこと、などが原因として挙げられます。世界が大きく変わっていく中で、日本の進路をグローバルな視点で決めるべきであるのは、当然のことです。トフラー夫妻の「第3の波」はいま大きなうねりとなって、全世界の津々浦々に押し寄せています。社会をよくするかどうかは、つねに世界の視点から語られ、実行されねばならない時代になっています。

 その状況の中で、日本の中長期的に採るべき選択が、グローバル・スタンダードの衣服を着ることによる新たな「挑戦」です。日本は、相手の懐に飛び込むことによって、さらにそれ以上のものを作り上げて相手を負かすことができます。いわば柔(やわら)の極意とでも言いましょうか(笑) グローバル・スタンダードもそのひとつにしかすぎないものです。ここでグローバル・スタンダードを忌避したら、その時点で負けです。まともに対抗してもかなう相手ではありません。まして、忌避しながら対抗もしなければ、「友好国」という名の疑似属国ではなく真の属国(事実上の51番目の州)か、もしくは、 国力をかなり減殺させられて3等国(国際社会での発言権はないに等しい)の状態で細々と生き永らえるのがやっとのことになるでしょう。


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所沢ダイオキシン騒動

 

いの >
 個人の発言の責任は、より責任のあるものの前では、相対的に小さくなります。江戸時代の小話でも権力者へのあてつけなど色々な面白い話しを話家は作ってます。そんな笑いやユーモアやゆとりのない堅苦しい社会はだめになります。庶民のやってるHPですからそいう意味で「のびのび」です。
 さて、テレビ朝日の久米さんが所沢の野菜のダイオキシン問題で陳謝しました。この発言についてですが、テレビ朝日も報道機関としてより社会的弱者である農民にとって無責任な発言だったと思いますが、農民の問題は脇に置いて、消費者(農民も含む)の立場で考えると、つまりここでの第三の権力報道機関の報道には舌足らずがあり、そういう意味で無責任であったが、報道機関より権力を持った政治や公共機関の無責任ぶりを露呈させた勇気ある「無責任」だと、逆に評価しています。より高次の責任主体の無責任ぶりを明確にした(調査をなんとこれからするとは…。)点で、結果的に社会にとって良い発言だったのではないかとおもいました。ですから個人の責任には少し眼をつぶり、権力には多いに辛口の発言をしていきましょうと、まあそういう提案です。
> 景


 権力への辛口の発言は、いやしくも!民主主義国家を唱える以上は、必要に応じて、対案をもって、批判しなければならないと思います。これは国民としての責務のひとつ(選挙権と同様のもの)と思いますね。で、マスコミの安直な報道は、脇が甘すぎたとしかいいようがないですね。あの菅さんを見るようです。たしかに当局は動いたけど、どちらかといえば、ミニ(ローカルな)社会不安を鎮めるために、つまり敵失に乗じて動いた点では、してやられた感じですね。結局のところ、ここで事態収拾(安心立証のための裏付け調査)に動かないと、JAという大切な票田が離反する恐れがあるわけですからね。放っておけば全国レベルでね。

 ま、そいうことからすれば、彼ら(自民党)のアキレス腱である票田を攻めれば、つまり票田周りの施策の不首尾を攻めれば、そうとうの揺さぶりをかけることができることを、今回の事件は示してくれました。まあ、それが収穫と言えばいえるでしょう。

 票田周りとは、農林漁業・建設業・中小企業・中小商店の経済活動とそれをとりまく地域生活や自然環境までをも含めた「自民党」の存立基盤をさします。直接的にはそれらの業界の代表する各種の団体や銀行、大手ゼネコンなどがこの党を支えているわけですが、やはり草の根の票が離反すれば長くはもたないでしょう。そういう意味で、庶民はもっともっとしたたかになってもらいたですね。それが民主主義が根づいていくプロセスだと思います。


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      ポストバブルの生きがい

 

健康であること
 医療技術は問題ない。ただし、医療費の負担が気になる。

働きがいがあること
 自分の能力を活かし、または高めることができる環境。
 (馬車馬のように働くのではない)

余暇を楽しむ
 スポーツ・アウトドア・旅行
 (旅行以外は金のかからない手軽なものを求める)

老後の生活を楽しむこと……中年以降の世代
 年金が心配。保険も不安。
 突然の出費に備えて蓄えておくこと。
 (しかし、蓄財の楽しみからではなく不安感から)

なんらかの自己実現
 ボランティア活動、生涯学習・技能修得、高齢者にもできる仕事

 

(現状認識)

 わたしたちの享受すべきこれらの事柄は、現在、下記の理由でおぼつかないものとなっている。
 つまり、戦後の焼尽から、焼け跡世代とその後の団塊の世代の頑張りによって、自動車やICなどの生産でここまでの繁栄を築いた株式会社「日本」は、国民のごく一部でしかない建設業界と銀行業界の傲りと放漫、そして、カネまみれになってのし上がった政治屋の私利私欲とそれを野放しにしてきた官僚の自己保身によって、破産を迎えようとしているからだ。

 


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スギ花粉と排気ガス

 

いの >
 この時期は、花粉症がでて大変です。おまけに今年は口内炎で、ダブルパンチです(^^)  花粉症がなぜ出るかについては、花粉症の原因物質、例えば杉花粉症であれば、杉のせいだけではないというのが、専門の先生方では定説だそうです。 杉が多いはずの田舎ではそう発症せずに、幹線道路の付近で多い。これは自動車の排気ガスが関連しているというのが定説です。 杉の花粉と自動車の排気ガスに含まれる微量の物質が結合して、花粉症の引き金となる(抗原)物質となるのです。

 これについて、どれだけのマスコミが取り上げているか知りません。おそらくあまり騒いでもいないのではないでしょうか。 小生がもっとも疑問に思うのは、トラックの排気ガスです。あれだけ黒炎をあげて走り続けても誰も何もいわない。これはおかしいです。 最近になってやっとトラックの排気ガス規制に目標ができた程度ではないでしょうか。この野放しの原因は、 元々は我々国民の環境問題への感心のなさに原因がありますが、国の産業育成中心のありようも大きいと思います。 なぜ日本は自家用自動車の規制ばかりで、トラックの規制をしないで、放置してきたのか、これは大きな疑問です。 このあたりをよく調べてみたいと思っていますが、車を運転している人ならこのギャップのひどさにすぐ気がつくはずです。
> 景


 この種の問題は戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」と同じ発想の上に立っていると思います。 言い換えれば、相変わらず戦時経済体制をひきずっている、というわけですが、昭和30年代の石油化学工業の花盛りの頃から、貿易立国を目指して、政・官・財の主導のもと、国家総力戦で国富の集積に努めた。その後は自動車産業。そしてIC産業。そういう意味では、小室先生の指摘される戦後の「戦時経済体制」の残滓を、大規模陸上輸送(トラック輸送)の現場において、市民生活のレベルで目の当たりにしている、ということですよね。 抽象的に言えば、そういうことだと思います。

 具体的に調べてゆくと、官僚(主として運輸)と業界との癒着の実体もでてくることでしょう。よくいう「現実の隠れたからくり」というやつですね。これに関連して印象に残っているのは、クロネコヤマトの社長が運輸省とやった大喧嘩。あのケンカから、許認可制度によって官僚がいかに古参の大企業(の既得権益)を保護しているかがうかがいしれます。しかも、彼らは国策として大まじめにそれをやっている、つもりでいる。

  一方、当の運輸業者(業界)は、族議員とつるんで寡占的収益をむさぼり食らう、というあまりに漫画チックな世界が実際に(飽くことなく!)繰り広げられている。そして、その一連の汚い関わりを含めて、 われわれ「庶民」は、トラックの吐き出すガスと一緒に生活の利便性の向上という見返りを全身で満喫している----という図なんでしょうね。

 なんだか問題点をボカしたような言い方ですが、この種の問題(産業発展と環境保全、そしてこれに関わる企業と政府と国民の態度決定の問題)は、 実は、理想的?電脳仮想国家「ヤポン」でも、もっとも大きな問題なんですよ〜。「ゆとりある『国民』生活とは何か」----について、じっくり取り組んでいきましょう(^ ^) 


いの >
 クロネコヤマトは、民の活力、規制緩和の代表選手です。なにしろ官僚の規制に抗しながら、宅配便という巨大な市場を築き上げました。 最近の新聞記事によりますと、そのクロネコヤマトが、「時価総額」で日本通運をついに追い越したそうです。「時価総額とは、株価に発行済み株式総数を掛けたもので、いわばその企業に対して市場がつけた値段」ですから、規制緩和の代表選手が、規制保護の代表を追い越した記念すべき記事ともいえそうです。

 やはり市場の反応というのは素直だと考えたいです。ここで思い出すのは「ハイエク」です。ハイエクは、「人間は自由にしておかれると、個人の人間理性が設計し、あるいは予見しうる以上のことをしばしば成し遂げると信じる」という言葉をのこしている様に、自由の価値を評価しました。また経済の巨人、ケインズと論争した人物です。 1974年にノーベル経済学賞を受賞していますが、なぜか日本での紹介は少なく、公共工事による景気刺激の理論的根拠ともなりうるケインズ理論が重視されたのです。

 このハイエクという人物を知ったのも、川喜田二郎先生の著作からですが、もっと知りたいですね。規制緩和の理論的根拠として使えるかもしれません。最近、渡部昇一さんがハイエクの紹介本を出しています。ところで、規制緩和というのは、内容が誤解されている傾向がありますが、 規制すべきは国民の生命や財産を侵すようなものであって、規制撤廃すべきなのは、余計なおせっかいみたいなお役所の許認可と考えますが、いかがでしょうか。
> 景


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メモ: 泡沫の国「日本」

 

日本人、取り残されることへの不安。集団に包まれていることへの安心。
まるで魚群、渡り鳥の編隊飛行、はたまた肉食獣から身を護るシマウマたちのようだ。

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「和」を求めるとプライバシーまで侵害される
つきあいたくなくてもつきあわされる
他人指向が強くなり、共同体内の他者との比較だけが自己の尺度になる
内向きになり、狭い共同体意識に埋没する
集団内での独善がまかりとおる
共同体以外の者はお客さんであり、対応が基本的に区別される
異なる集団間ではときとして熾烈な抗争が展開される
共同体の構成員間では過度の平等主義がはびこり、それが集団の力を減殺する
「和」は共同体内で過剰に作動し、構成員個人の自己実現を阻むものとなる
独創性は否定され、属する集団から冷遇・無視される(村八分)→「いじめ」の淵源
「和」は責任の所在をあいまいにする→しばしば集団の管理者たちのカムフラージュに使われる

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仮初めの共同体(人的結合の比較的弱い集団)は、3人以上集まれば、ありとあらゆる場面で、さまざまなバリエーションで発生し、また、霧消する。この種の集団はさまざまなレベルで、さまざまな程度に離合集散している。それはまさに「うたかた」である。そう、泡沫の国「日本」も然り。

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自己実現は、目的追求・篤い信仰のいずれかによって達成される


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「夢」の危うさ

 

 久しぶりに含蓄のあるご意見、ありがとうございます(^_^) ぼくも最近ロンリーに吼えることから遠ざかっていたので、眠りつつあった回路が再び刺激されました(笑)

 「積極的に考えるのは、まやかしの入る余地があるということを 考慮に入れた上で、積極的に政治や経済のことを提言していきましょう」

 おっしゃるとおりだと思います。この活動が「庶民」と「国民」の違いであり、ウォルフレン氏のいう「高度に政治化された社会」からの自由の砦なのです。つまり、フレンドリーなファシズムから「自由」で あるための「国民」としての基本的な態度なのです。いのさんのおっしゃる「積極思考」への懸念は、ぼくの場合、最近流行の 「夢をありがとう」というキャッチフレーズに対する「危うい感じ」と符合します。このメンタリティーも、「真剣に考える」ことから庶民を遠ざけ、庶民を「国民未満」の状態で飼い殺しにする心性(エトス)の顕れと感じます。

 「夢」=あるべき姿を高く標榜しながらも、「真剣に」考えなければ夢の達成(フレンドリー・ファシズムの打倒による「厳しい自由」の獲得)もおぼつかない。 もちろん、若いサッカー選手達の国際舞台での大活躍に「夢」を託して酔うのもいいが、一方で、「厳しい自由」の獲得なんて要らないと、ヒーロー達(つまり他人)に託した「夢」だけを夢想するのは、ファシズムの得意とする3S政策に乗っているだけなんですね。

  あのヒーロー達が自分の能力と向き合って人一倍「真剣に」技能を磨いてきたように、「夢をありがとう」と簡単に酔う人たちは、 彼らこそフレンドリー・ファシズム(日本型社会主義)の殻を食い破って真剣に考える「国民」になることを目指すべきです。 日本のエネルギッシュで礼儀正しいサポータたちに代表される若者たちこそ、です。苦言を呈しているようですが、これは期待の裏返しです(^ ^)

 と、偉そうに人に言う分、僕たち中高年も いつまでもサイレント・マジョリティの黒衣をまとっていてはいけないのかも知れません。というわけで、ぼくとしては まずロンリーに吼え続けることからはじめています。できれば、おおいに建設的なディスカッションをsたいところです。


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本が売れないわけ

 

いの >
 1999年3月9日の日経流通新聞に、書籍流通ビッグバンという記事が出ていて、面白く何度も読み返しています。その内容は? これは日本のマスコミの一部を形成してきた書籍出版ですが、今まで、一部の大手出版会社に流通機構を統治されてきた制度が、売り上げ減少(2年連続前年ダウン)と書籍の返品率が昨年、初めて40%を突破し、出版業界も流通機構の改善に乗り出したという記事です。

 この本の売り上げ減少の理由は、消費不況の影響という見方は当然ですが、もう一つは、インターネットの普及もあると考えています。一部の出版社の生産者優先の出版姿勢に、庶民の地位に甘んじてきた国民が、インターネットという双方向性のコミュニケーション手段を得て、いい加減な売り重視の販売姿勢に「ノー」を突きつけた一つの意思表示ではないかと考えています。

 この辺は景さんの市民出版に詳しく記載されていますが、再販売価格維持制度と販売委託制度という2つの柱の元に、一部の大手出版社が、小売店への販売委託という方式で、小売店が独自の販売を努力せず、単なる販売委託 を受動的に受けるだけの存在に留まらせることで、一部の大手出版社が、販売店、ひいては流通全体を支配してきたのです。

 ここへきて出版の流通の仕組みに、「実績重視配本」や「新刊委託」という制で委託制度のリスク分散を狙ったものの、うまくいかず、 「需要予測に基づく出版、販売に近づける」ため、コンビニあたり常識になっているEDIと呼ばれるコンピュターによる商品受発注の仕組みを書籍の流通に取り入れようとしている。(遅れている!)(@@)/

 私が何を言いたかったのかと言うと、書籍という自由な自己表現の手段が、一部の出版社(マスコミ)に握られてきたという事実です。 自由な意思表示のできない社会はどうなるか?それはファシズムの台頭です。真剣に考えて、自由に意見を言う。 この人間固有の権利を提供して下さっているのが、白鳥社であり、景先生なのですね。ということで、応援団の独白を 終わります。(^-^)/

 あ、それから一言。最近、桐某やら堀某やら田某やら、ポジティブシンキングの本が良く出ていました。 この面白いがちょっと危うくて、販売重視でプロダクトアウトの大出版社の戦略に、国民がノーと言った 記念碑的な出来事と言えるのかも知れません。本の消費不況は、川喜田二郎先生の言われる「当てはめ思考」 タイプの高飛車な大手出版社の販売姿勢に、消費者たる国民がノーと言ったのです。思想は自由です。その自由をマスコミは庶民の知らないうちに摘んでいたのではないでしょうか。

 今や日本は50年に一度の大変革期を迎えています。 ウォルフレンが日本の民主主義は、旧ソ連以下と言ったのは記憶に新しいです。このあたりの事情を言っておられたのでしょう。 でも段々こういったチャットによる意思疎通により、我々市民の広場のなかった中年にも、これからどんどん広場がでてくることでしょう。(^ ^)/
> 景


 ご存知のように、川上・川下のいわゆるプロダクトアウトの発想は、商業出版界においては徹底しており、 これが、日本国中どこの本屋に行っても東京市場で見込んだ「売れ筋本」しか置いてないという、殺風景な出版文化の原因になっています。これでは、ひとびとの書籍離れはすすむ一方で、本が売れなくなったといわれて久しいですが、「中央」発の画一的な マスプロ出版市場では、これからの多様な価値観の同居する時代には、ますますミスマッチとしかいいようがないでしょう。

 おっしゃるように、庶民が「国民」になるにしたがって、この傾向は強まると思います。結構なことです。 出版会社の大会社化という発想自体が、出版事業を殺してしまうものと思います。多様な価値観、多様な個性の ニーズにどう的確に応じるか、しかもそのニーズは流動的であり、あだ花的でもあります。

 講談社や小学館などの大出版社は完全分社化して、各社がターゲットをしぼりこみ、波乗りよろしくゲリラ・マーケティングを展開すべきでしょう。 そして、3月期ごとの実績評価で不採算な会社は速やかに整理し、別法人として、新たなスタッフ・新たなターゲットで 出発させる。小回りの利く「小さな出版社」として、規模は小さいが確実に存在する「本好き」市場の再発掘と その拡大のためのマーケティングを推進すべきでしょう。ま、基本に帰れという按配です(笑)

 その結果、 市場規模は確実に縮小しますが、マスプロダクト方式によってむりやり2兆円市場にまで広げていることに 限界が来ているともいえるわけですから、昔は随所にあった「売れなくても良い本」を置いている本屋さんが、 棲息可能な市場環境を再生したほうがよいのではないかと、「真剣に」そう思います。

 出版界には「大河の奔流」より 「渓流のせせらぎ」がよく似合う(^_^) 堺屋長官のいう「多価値の時代」は、これからの出版界が ひっぱていくべきものでしょう。で、市民出版という事業はぼくの「専売特許」ではなく、フリーウェアですので、 いつだもだれでも、ぼくに断りもなく(笑)そのスタイルで事業を始めてけっこうなんです(^ ^) 

 ただ、この着想を得て6年にもなりますが、ぼく自身がいまだに脱サラできないでいるのは、事業としての基本的な 欠陥である生産性の低さ=利益率の低さをまだ改善できないでいるためです。事業の継続を図れるだけの収益が(手づくりによる生産能力の限界から)じゅうぶんに得られないという試算を得ています。目下、この問題に 工夫を巡らせているところですが、マスプロダクト式にやれば、市民出版の意義が失われるし、作業人員増で取り組めば人権費アップで不採算になる、というジレンマにあります。

 そうなると、事業のシステム自体に問題があるのかな?  つまり、「市民出版」は事業として成り立たないのかな? という基本的な問題にぶつかります。まあ、そもそも 受注があるかどうかもわかりませんから(爆)、趣味の「事業シュミレーション」に留めておいたがよいのかも… 。なんて、弱気になっていますが、でも、やっぱり近い将来なんとしても立ち上げますですよ〜。


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インターネットとSOHO

 

 おっしゃるように、INTERNET(以下、勝手にINT または Int と略することにします(^ ^;)) の普及がもたらした 恩恵ははかりしれないものがあります。ぼくは今でもパソコン通信のニフティにはいっていますが、こちらのほうはとんとご無沙汰です。

 10年前だとパソコン通信全盛期の頃で、INTのことを知る人などほとんどいませんでした。それから、2〜3年後にパソコン雑誌などで INTのことが紹介されはじめたのですが、まだプロバイダもほとんどなく、ブラウザもMosaicが出たばかしでした。 というより、WWW(World Wide Web)という驚くべき技術がINTに導入されてまだ日が浅かったのですが、本家本元のアメリカでは、商業的利用の可能性があると見るや、一挙に民生用の新メディアとして普及し始めました。もちろん、ポルノ画像の氾濫も その普及の重要な要素になっています(笑)

 日本でも同様の理由から、アメリカに遅れること5年のスパンで、 積極的なオッカケがはじまりました。いまから7年くらい前のことになります。アメリカとの差は、その普及率においては、やはり今でも5年は開いているような気がします。日本では3つの理由で普及が鈍化しているようです。

 ひとつには、パソコン普及の頭打ち。一般家庭への浸透は3割程度と聞いています。使いやすくなったとはいえ、 興味がなければ面倒な操作を要求する高飛車なマシンに過ぎないでしょうね。ふたつめは、通信インフラの利用料金の 高さ。専用回線は言うに及ばず、電話回線を使ってもテレホを利用しなければ、月々の出費は万単位になります。 この出費高からすれば、いまのところ費用対効果は薄い(低いというべきか?)といわざるをえません。

 ホームバンキングや 電子商取引のセキュリティが確立されればだいぶ重要度も増すでしょうが、それだけでは不十分です。つまり、主婦をも含めた在宅ワークの環境が整わないと、民生上の真の利用価値はでてきません。生活上の利便性だけでは、これまでのように電話予約やFAXでの注文で充分です。

 INTでは、WWWを使った非常にビジュアルな情報発信こそが重要ですが、これを使用することがその家庭の収入にも結びついている環境が浸透すること。つまり、SOHOや在宅ワークといった就労・就業環境がひろくいきわたることで、 INTの重要性はこれまで以上にたかまり、その普及はさらに急速に拡大し、端末であるパソコンもTVや電話並みに必要とされるでしょう。

 さて、ここで要約すれば、インターネットとパソコンの普及は、SOHOや在宅ワークの浸透なしには考えられない。電子商取引のセキュリティ確保やネットバンキング、ホームトレーディングやレア・グッズの通販、あるいは、ホテルの予約や天気予報の最新情報だけでは頭打ちということです。もちろん、自己表現のための日記の公開やポルノ画像の観賞も、これからの広範で基幹的な普及に関しては、これまでのような強力な牽引車になるものではありません。

 それに、繰り返しますが、電話回線に依存した通信環境ももはやネックになっています。これはCATV回線に切り替えられるように インフラ整備を急ぐ必要があります。NTTが東西に分割されても、所詮は寡占企業体ですから、INTのこれから先の普及を阻止しているのは、NTTの高すぎる「通信」料金でもあるともいえます。

 いずれにせよ、独占・寡占の 環境をいつまでも温存しようとするこの国の姿勢が、「隠れた税金」の吸い上げもあって、各種の公共的料金を不当に高いものにしています。というわけで、最後はお定まりの政策批判で締めくくらせていただきます(笑)


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「産業の発展」とゆとりある生活

 

いの >
 景さんの「高度成長時代の復活を目指す経済上の諸政策はことごとく誤り」というご指摘は、なるほどと思いました。 でもそれはビジョンの面においてという意味で、理解しています。なぜなら、産業の発展は、ゆとりある生活を送るためには、必要と思うからです。(^-^)

 高度経済成長時代は、公害なども起きました。それは黒煙を吹き上げて走る機関車の様に、成長重視に力点がありすぎて色々な弊害もあったようです。 今は高度成長がそのまま国民の幸福という図式はあてはまりません。今は、「商品」を取り巻く環境を見ても、地球温暖化京都会議やオゾン層破壊防止を取り決めたモントリオール議定書など、「黒煙」を巻き散らしまがら突っ走ることはできない時代になりました(京都では、二酸化炭素の排出抑制取り決めがありました)。こういった国際的な取り決めを受けて、国内でも対応推進する法律改正がたくさん実施されています。

 例えば、平成5年に環境基本法の制定、平成10年における「省エネ」の改正や、廃棄物関連では、平成9年の廃棄物処理法の改正、平成10年の家電等再商品化法などたくさんの法律が改正されています。これらは企業や家庭や自治体や個人などのあらゆる「主体」が、環境に対応した行動を促すものです。

 こういった情報もまた、中小企業診断士の「商品知識」という科目で仕入れた知識です。(受けうりです。笑) 景さんの言われる「ゆとりを持った生活」を目指すには、私は欧州が参考になるのではないかと考えています。なぜなら、世界で環境問題に最も敏感なのはヨーロッパだからです。環境対応の世界標準規格のISO14000シリーズでの取得が多いのは欧州のようですし、遺伝子組み替え植物の規制に最も熱心で、超大国アメリカにその問題で堂々とわたり合っています。ウォルフレン氏の母国オランダも欧州でしたね。

 それから、世界的にモータリゼーション、つまり車社会の発展で、交通手段が電車から車にシフトしています。そこで起きているのは駅前の商店街の空洞化の問題です。 日本でもあちこちで駅前商店街の空洞化が起きて、日本では中小小売を保護するための大店法を作って、 経済的規制をしようとしました。しかし、これはかえって逆効果で、駅前商店街はかえって廃れてしまいました。

 ここで欧州といったのは、廃れた駅前商店街を復活させるTMOと呼ばれる手法が参考になりそうだからです。 TMOはタウンマネジメントオーガニゼーションの略で、地区の商工会や第三セクターが中心になり、市長村の作成する基本計画に沿って、商店街整備や中核的商業施設の整備をしていく事業計画を行う機関のことです。これもどうも欧州発の発想と聞いています。それから車道を曲げたり、道路に凹凸をつけたりして、車の速度が出ないようにして、車と人の共存をはかるこころみ、ボンエルフ方式なども欧州発と聞いています。どれもこれもゆとりある生活への英知と関心を持っています。(^-^)

 それから産業競争力会議での新規創業援助の取り組み、公金貸出しについての緊急性については、高く評価しています。特に高く評価したいのは、直接金融にむけての規制緩和の動きです。日本の現状は、金融の問題が大きいのです。貸し渋りが起きたのは、不良債権問題が大きな原因としてありますが、銀行から出るお金の流れが悪くなっている状態です。人間の体でいえば、心臓から出る血液が出にくくなっているのです。

 これは心臓に送る血液が血栓などでつまった「心筋梗塞」や「狭心症」の状態に例えられます。心臓からの血液が体に行きにくい状態です。ここで、直接金融が充実されるということは、個人の持っているお金が株式市場に流れ込むのです。これは体への血液の流れが別ルートができたといってよいと思います。

 ところで、直接金融の動きで最も関心を持っているのが、ナスダックジャパン開設の動きです。朝鮮出身の父母のもと、九州の片田舎の佐賀で育った昭和30年生まれの孫さんという実業家の今後を更に注目しています。 規制社会の日本で、突出した動きを見せるこの人に、既成の勢力ははたしてグローバルな基準で動くか、それとも日本の保護行政的発想からつぶしにかかるか、これは見どころです。

 今日本には、企業というたこつぼ社会から出たくても出られない若者が大勢います。こういうくすんだ青春を送りながら、実業家として青雲の志を持つ未来の孫氏をどれだけ作れるかですが、ナスダックジャパンの成否がこれを左右します。 このナスダックジャパンが成功するかしないかで、日本の証券市場が競争によってよりいっそう鍛えられるかどうかがかかっています。ナスダックジャパンの行方は、日本社会の10年後のバロメーターになるものと思っています。

 それからもう一つ。日本の証券の伝統に挑戦したこと、日本の少数民族である孫さんの直接金融改革の動きが、企業(家庭)内でくすぶっている日本の未来の実業家(自己資金が500万もないような言わば「社会的弱者」です。)を育てる可能性が大であることに強い関心をもっています。いわば孫さんという少数派(彼は社会的弱者として育ったのです)が、今社会的な弱者である未来の実業家を育てようとしているのです。これは象徴的ですよね。
> 景


 TMOについてはぼくもすこしはかじっていますが、察するところ、補助金の受け皿団体を造って、再開発という名の一部業界団体と企業を潤すだけの箱モノづくりに終わるのではないかと危惧しています。少なくとも、熊本市の(元)中心商店街復興のためのTMOは、どうもそんな気配です。

 孫氏については、まだNECのPC9801シリーズが日本のパソコン市場を席巻していたころに、パソコン関係の雑誌やマニュアル本の出版社として知っていましたが、当時(10年ほど前)は、孫氏が社長であるとか、これほどのビッグビジネスをやる御仁だとかは、知る由もありませんでした。アスキー同様、彼もまたベンチャー企業の旗手だったんですねえ。

 ひところ盛んに展開した大胆なM&Aやいのさんの高く高く評価されるナスダック・ジャパンの取り組みなども、きっと彼にとってはベンチャー精神の現れにほかならないのでしょうね。それにしても彼は非常に若く見えますね〜。こういう人を真の実業家というのでしょうね。それから、ばくは産業競争力会議の詳しいところは理解していません(^ ^) プロセスは放っといて、できあがった結論だけを吟味しようと思っています。

 それと、「産業の発展はゆとりある生活を送るためには必要」との発言に関しては、同意を留保したいと思います。 それは「産業の発展」の意味するものと「ゆとりある生活」の意味するものを、まずおのおの充分吟味する必要があると思うからです。 そのうえで、両者の概念を突き合わせてみる。その場合にも、両者の定義の仕方によっていくつかの異なった結論が導き出されるでしょう。 いずれにせよ、最後は「万機公論に決す」ればよいことです。

 そこで、「ゆとりある生活」というときの「ゆとり」ですが、 これは心のゆとり(=安全の確保、自己実現の機会拡大)と空間のゆとり(=居住空間のある程度の広さ、各種インフラ・公共施設のきめ細かい整備)によって構成されています。自己実現の機会拡大は「時間のゆとり」と言い換えてもいいかもしれません。

 ところで、この「ゆとり」の確保のためには、 これから先は、ひとびとがお上に従順な「庶民」から脱して、国民国家の主権者(=統治者)としての「国民」であり続けることが必要です。 さて、「ゆとり」に関しては、これからもっと具体的なアプローチを続けていきたいと思います。それは、愛するヤポン国の有り様でもありますから。

 それから、「産業の発展」についてですが、これもまた極めて漠然としたイメージなので、充分に具体化する必要があります。 ただ、ぼくの現在の能力では、このおそろしく重要な課題に対して、まだまだひ弱な理解力しかもっていませんので、 ここでのイメージニアリングによる思いつき的発言は差し控えます。だた、産業の発展と微成長とは矛盾しないという確信めいたものがあります。今後は、これもつきつめて行きたいと思っています。愛するヤポンのために(^ ^)


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 2000年問題

 

いの >
 ところで、コンピューターの西暦2000年問題。 これは中小企業診断士の試験でも出題可能性があるのですが、コンピュータが1900年と2000年を間違えて、誤作動を起すのではないかと心配されています。アメリカでは、随分と前から心配して、色々やっているようですが、日本では、中小企業が、ほとんど準備できていないのではないかと、大変心配されています。

 マイコンを含めれば、相当な部分にコンピュータが使用されていますので、これが一斉におこしくなると…。今日のテレビのニュースでは、西暦2000年問題への対応を、コンピューターのメーカーが準備していなかったとして、銀行が訴訟を起す…といった話しがでているようですね。これは心配ですね。電話やテレビ、信号や飛行機、電車や自動車、大丈夫かな〜。
> 景


 2000年問題はかなり賑やかですねえ。そんなことは、以前からわかっていたことだから、対応が遅れていることでマスコミがいくら騒いだってねえ〜。 この問題に対する日本の大方の対応は最初から見えていることで、その基本は集団主義による無責任体制を貫くところにあります。 アメリカのような「努力」は最初からする気が無いのが大勢を占めているでしょう。

 なぜなら、実際に「被害」がどの程度のものであるか(未経験のため)想定しにくいこと。また、苦労してプログラムの細部まで解析しても、ハード(メモリ)上の制約によっているから、 結局のところ、システム自体を刷新しなければならないこと。そうなると、現状で充分問題なく作動しているのに、誤作動の程度が想定できないということは ひょっとしたらなにも生じないかもしれない(経営者たちは、できればそうあってほしいものだ…と密かに願う)。それなら、 莫大な費用をかけて、しかも運用を一時中断して行わなくてはならないシステムの刷新は、結局更なる多大な損失となって跳ね返るから、積極的な対応は見合わせる。と、このような経営陣の「判断」のもとに、 結局なにもなされない。せいぜい、訴訟の準備をおさおさ怠りなくやっておきます、というふざけた発言になるのは、この国においては「自然な」展開といえます。

 自治体ではさらにご丁寧に、2000年問題を「自然災害」と同じとみなして、災害対策の体制づくりをとっています。これが何を意味するか? つまり、集団主義の悪弊である「みんなの責任=無責任」の決め込みです。言い換えれば、2000年問題は自然災害と同じものだからだれの責任でもない、という馬鹿げた発想です。そして、自然災害だから、生じた被害の穴埋めには災害復旧費としての公金(税金)を惜しみなく使う、というこれまたふざけた対応です。集団主義の悪弊とともに、いのさんの言う「アニミズム」のいかがわしさがここにもカマ首をもたげています。間違えてならないのは、発生した被害は人為的な損害によるものであり、その責任は損害発生に関係するコンピュータ・システムの運用者が負い、その運用者はシステムの供給者へ求償するという関係のものです。

 さて、2000.1.1以降にどんな不祥事が生じるのでしょう。それはぼくにもわかりません(^ ^; ぼくが最初に手にしたパソコンPC-8000では、たしかにDATE関数の処理は、下2桁だったと思います。ぼくが25〜6歳の頃、いまから、20年近くも前のことです。 ちなみに、NEC製のこのPC-8000はキーボードとCPUが一体型でディスプレイはテレビのブラウン管というシロモノでしたが、 今も実家の倉庫で現役復帰の日を待ち焦がれています(^ ^) N88BASICでいろいろ遊んでいたあの頃が懐かしいですね。 時の経つのは、ホントに速いものです(笑)


いの>
 昨晩、子どもに2000年問題の説明をしていたら、水道のなく井戸水を飲んでいた時代、テレビがなくてラジオしかなかった時代、電気機器がない時代の話しになりました。2000年問題が起きるかどうかはわかりませんが、いかに人間がエネルギーを無駄にしてきたかを、もう一度考えなおす良い機会にできそうです。
> 景 


 2000年問題。確信犯的人災。かつて世間をにぎわかせた原子力船「むつ」の故障も建造当初からわかっていたものでした。このような確信犯的人災はいたるところに存在します。欠陥住宅がもっともポピュラーですね。これらに共通するものは、「手抜き」です。経費を安くあげるため、あるいは、工期を短めるため、あるいは、その両方。
 さて、この「手抜き」は、今の小渕政権も得意としています。財政改革をしないどころか、ますます膨大な赤字を再生産していることは、政治の「手抜き」です。借金王などとうそぶくこのヒヒのような顔相の無能な男は、烏合の衆に奉られて確実に亡国への舵を取っています。では!


いの>
 Y2K(2000年問題)で頭にくるのは、おぶちさんが、「水などを備えておけ」と国民によびかけていることです。政府の代表たる首相は、Y2Kに関して、官僚組織や民間組織に対応を正式によびかけたりしているのでしょうか。これはあまり印象がないんですよね。やることをやっているのかわからないのに、知らされていない国民には耐乏生活と強いる。これって戦時中の構造になていると思いませんか。

 こちらの不勉強かもしれませんが、国会でY2Kについての質疑応答は、印象が薄いんですよね。やることはこれだけやってきたので、大丈夫だが、念のため準備しておきましょうなら話しはわかるんですが、これじゃちょっとね〜。心配になりませんか。クリントン大統領が、世界で2000年問題に関して一番危ないのは日本と言ったとか(趣意)聞きました。臨海事故で日本の原子力に疑問符がつきつけられたのですが、原子力発電所とか大丈夫かなと心配になります。といっても今日は12/29なのですが。
> 景 


 Y2K、いわゆる2000年問題については、HP「画図日記」の「いのさんとの対話」でちょっと触れていますが、要するに、騒ぐだけ騒いでなにもやっていないのが現状でしょう。でてくるさまざまの不具合にたいしては、どの企業も基本的には、応訴でこたえるというスタンスですからね。これは、NHKのインタビューに対してどこかの企業の責任者が話していたことですが、彼の談話は、日本政府のY2K問題に対する無責任の裏返しでもあるとぼくは理解しました。では、また。


いの>
 年末なので、平成10年版中小企業白書の見直しをしていましたら、2000年問題に対する中小企業の対応は、着実に進行しているとの記述がありました。平成8年6月に18都道府県で行われた調査で「未検討」と応えた企業が48%に及んでいたが、平成9年7月に、社団法人情報方サービス産業協会が実施した調査では、「未検討」と応えた企業が29%まで減少しているとのことでした。中小企業でここまでやっているのだから、きっと大企業や官庁はもっとやっているでしょう。ということにしましょう。何せ今日は12/30ですから。
> 景


 そうですね、そういうことにしておきましょう。でも、ちょっと気がかりなのは、具体的にどのような不具合をどのように改善したのかが説明されていないのではでしょうか。もちろん、説明義務はないのでやってないということでしょうが、裏を返せば、やってないから説明できないともとれる。疑えばきりがないですが、やったやらないの結果だけ見たアンケート調査の結果など、大本営発表と大同小異の観があります。

 ただ、いずれにせよ、ぼく個人としては、Y2K問題に関しては、ロシア人同様楽観的に捉えています。とくに理由はありません。単に、大事故などは起こらないでほしい、という願望の現れに過ぎません。おそらく、フェータルな問題は起こらず、Y2Kに立派に対応したからだ、と政府や大企業がひとしきり自己宣伝して幕引きとなるでしょう。もちろん、日付のスタンプミスとかは、起こるかもしれませんが、まあ、元旦が楽しみですね(笑) 以上、今回は、無責任きわまりない発言で失礼しましたm(_ _)m,


いの>
 もうすぐ2000年です。この前は、昭和が終わって平成になったと大騒ぎしていたのに、今度は西暦で大騒ぎしています。私は西暦派のつもりで平静に平成を迎えたのです。今回は、日本独自の和歴、こういう言い方があるのかどうか知りませんが、平成の延長のつもりで2000年を迎えるつもりです。
 簡単に言えば、ひねくれ者かもしれませんが、最近のマスコミは話題性ばかりで物事を判断し、騒ぐようです。2000年問題が実際に起きるかどうかについては、分かりませんし、簡単にコメントできる立場にはありませんが、2000年問題という話題性に便乗して一稼ぎしようという魂胆だけは、僕は気に食わんです。
>いの


いの>
 明けましておめでとうございます。心配された2000年問題も、どうやら何もなかったようで、ほっとしています。
>いの


 あけましておめでとうございます。熊本は快晴の新年を迎えました。穏やかな元旦です。
 さて、Y2K問題が特段の大きな「事件」を発生させなかったことについて、政府や大企業は、「Y2Kにきちんと事前の対応を行ったからだ」と自慢気に自己宣伝することでしょう。やれやれ、まったくおめでたい人々ですが、このような思い上がりが、最終的にもっとフェイタルな状況を用意していくことに気づくべきでしょう。そして、その落とし穴に落ちないように、今から充分注意を払って、危機管理に神経を集中させていかなくてはなりません。
 さて、「もっとフェイタルな状況」=「落とし穴」とは、なんでしょうか。ヒトゲノム計画の完成すなわち人間の遺伝子構造が全て解読された瞬間以降の「ある」状態です。これに、民間企業の特許権が介在していれば、ことはさらに厄介になります。ぼくたちは、2003年までに達成されるといわれているこの計画の遂行に、充分な注意を払わなくてななりません。では、どのように注意を払うべきか。これは、おいおい考え方を述べていきたいと思っています。それでは、今年も頑張りましょう(^_^)/


いの>
 新年早々難しい話しですね(**) ヒトゲノム計画というのはよく知りませんが、人間の尊厳に関わる難しいが重大な問題です。いつかご高説を拝聴したいものです。いよいよ明日から出勤の人も多いようですね。明日からが、本格的な2000年問題の始まり立ったりして…。
> 景 


 ぼくの親戚も、明日その関係で出勤するそうです。でも、2000年問題なんて、ズボラな人間のやった問題先送りのお粗末な「人災」ですから、この手の底の浅い問題にあまりに拘泥するのは、ちょっといやみな感じを持ってしまいます。なにも心配する必要はありません。日付がちょっと狂ってスタンプされる程度の「問題」です。もちろん、それをネタに訴訟を起こすことは可能かもしれません。アメリカなら充分ありうる話です。

 この問題で、あなたやわたしの虎の子が消えてなくなったとしたら「大問題」ですが、そのようなことはまずありえません。もしあったとしたら、それは意図的な操作によるものです。即、訴えましょう。でも、預金や借金の利息がおかしくなる、ということは、ひょっとしたらあるかもしれません(^ ^;
 税金の課税関係もいちおうチェックしといたがよいでしょうね。いずれにせよ、時系列データを用いた金銭絡みのアウトプットには、この1年間は目を光らせていたほうがよいでしょう。でも、ある意味では、その程度の「問題」です。心配の再生産をするほどのものではありません。


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ホスピタリティー

 

 ホスピタリティーですか。なるほどですね。マーケティングにおけるケアの重視、とでも言うか…まるで、これから隆盛する介護ビジネスのキーワードかなって思っちゃいますね。ともかくも、貴重なご助言ありがとうございます。

 でも、おっしゃるように、このホスピタリティーの多少の見極めというのは、難しいですよね。とくに、家造りにおいては、一生にせいぜい2〜3度の大きな買い物でしょうから、最初の当たり外れが最後まで大きく影響しますよね。しかも、住宅メーカーの営業マンは、新築の契約を取るかどうかが勝負であって、建築後のアフターケアはメンテ部が担当するところがほとんどで、そうなると、契約前にメンテ部の「親切さ」まで確認したほうがよいという話にもなりそうです(笑)

 ところで、このホスピタリティーの重視というトレンドは日本においてのみ特徴的なことのように思いますが、いかかでしょうか? つまり、歩行者信号が青になった状態で、なおかつ大人が黄色い横断旗をもって、大事そうに(あるいは機械的に)学童達を横断させる、あの驚嘆すべき「過保護さ」を、サービスという商行為上の「売り」にしようと務めている図がうかびあがるのですが、どんなもんでしょうか?

 妙にもってまわった質問を発して恐縮ですが、なんだかここにも日本的な「優しさ症候群」が見え隠れしているようで気になります。話は若干変わりますが、現代日本には「優しさ症候群」と「夢症候群」が、大衆心理の特徴として指摘できると思います。

 優しさと夢……実に心地よいことばです。酔いしれてしまいそうです。優しい心の夢追い人に埋め尽くされた国「日本」。ウォルフレン教授の言う「偽りのリアリティ」も、ここまでくれば本物ですね(笑) どうか、「このヒネクレモンがぁ!」などとは思わないでくださいましネ^^;


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ヒトゲノム計画は幸福の使者か

 

 Y2Kよりもっと重要な問題は、日本国の政治の舵取りとヒトゲノム計画でしょうね。後者のはらむ「問題」は、クローン技術と結びついたミュータントの製造に関するものです。これは、50年後には実用化し、100年後には、宇宙や海底での長時間の作業に適応した人びと?が、それぞれの分野で活躍しているでしょうが、はたしてこの避けられない未来が、人間存在にとって幸福なことか…と思わずにはおれないのです。
 原子爆弾を造り、恐怖のバランスの下で繁栄を貪ることが幸福なことなのかどうか。しかし、人類は、この悪魔の最終兵器を手放すことはないでしょう。そして、さらに人間存在の変造までをも手がけようとしています。21世紀は、人間変造の世紀でもあるのです。

 

いの>
 そういった人間をサイボーグみたいにする計画は、絶対に反対です。でも人間の生命を人工的にコントロールすることは、段々段々進んでいるのは感じます。医療も最近は医療なのかと思われる事態もどんどん進んでいて、バイアグラや毛生え薬といった「ほおっておいても死なない病気」のコントロール薬が増えているのは周知の事実です。また婦人科では、人工受精がそうですし、家畜を遺伝子組み替え技術で生み出すなどもそうですね。不思議なのは、日本の国会ではそういう事に対する議論は進んでいるのでしょうか。
> 景 


 ほとんどやってないのではないでしょうか。この問題に対する危機意識はまったくボンヤリしたものだと思います。危機管理には強烈なイメージ喚起力が必要なのですが、彼ら政治家連中にはそのような能力は乏しいようですね。目先の損得勘定に長けた御仁が圧倒的に多い。このような人々が国民の代表であるということは、われわれサイレントマジョリティの責任でもありますが(^ ^;


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女性の時代

 

いの>
 いやはや、熊本の知事選はすごい選挙だったようですね。つまり投票率が高かったし、女性候補が3人も出て、全国的にも注目を集めました。以前こちらに書いたように、日本の女性は、この先、どんどん社会で活躍しそうです。その辺の男性なんぞは、とてもかなわない優秀な女性は大勢います。企業をめぐる環境では、男女雇用機会均等法の影響が大きい気がします。これは社会にじわじわ影響が出るはずです。これも民主化の一つです。

 さて、女性の社会における発言権が強くなるとどうなるか。経済の面では、環境対応の動きが加速すると考えます。つまり欧州に近づき、環境や生命に対する関心が深まるはずです。ものをどんどん作って捨てた従来の産業とは、逆の方向での経済が大発展しそうな予感があります。
 つまり設計、生産、流通、消費、廃棄までが従来の経済とすれば、廃棄、分別回収、選別、再生、再利用という「静脈産業」の発展です。家庭の中で、男性が食事の後、「ごちそうさま」で終わってしまうのに対して、女性は、食べ残しを集めて、皿を洗い、また使えるようにきれいにします。それと同じです。これは想像がつかない位の市場性を持っています。生活の仕方自体も変わるかも知れません。(^-^)
> 景


 ふむふむ、循環型経済社会の到来なわけですね。確かに昨今のゴミ問題や廃棄物処理問題を見ても、従来の大量生産・大量消費のあとの大量廃棄でおしまい無責任システムはもはや通用しない時代になっていますね。合理的なサーキュレーション・システムをいかに確立するか。新聞にもシンポジウムの記事などがよく載っていますね。
 ここらあたりのマスコミの認識は、月並みで新鮮味はありませんが、間違ってはいないでしょう。ちっとは存在意義もあるというものです。熊本でも女性知事が誕生したし、女性票が相当動いたと聞いています。日本はいよいよ本格的な女性の時代にはいったようですね。


いの>
 企業における民主化で特筆すべきことは、「男女雇用機会均等法」の成立です。この法律は、じわりじわりと日本の男女の平等を実現していく法律であると考えています。子どもの世界では、女性優位とも言える状況があります。アッシー君という言葉も流行りましたが、うちの娘の同級生など、すっかり男より女が強いようです。良い社会は、選択肢の広いのがその条件と信じています。その意味では、これからの数年後、随分と様変わりという状況かもしれません。
> 景 


 うちの息子なんか、「女子の決めたことに従っていたほうが事がスムーズに運んでいい」なんて言ってます(笑) 若年層における女性優位は確かに存在して、しかも全国的な傾向のようですね。女性が「強い」時代というのは、「平和な時代」なのかも知れませんね。それに文化的にも爛熟した「豊かな」時代…かな? 異論も多かろうと思いますが(^_^;


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