ある「アスペ」な男2013-06-02

(~前略~)

アスペルガー症候群のまとめ資料は、興味ありますので、送ってもらうとありがたいです。この病気については、けっこう適用範囲がひろくて、そのぶん境界があいまいなようなので、根が詩人のいのさんが「あまりに身につまされる」のも当然でしょうね。

私自身ももともと“超内向”な気質ですから^^;、自分もアスペだなって思うところは多々あります。おそらく多くの人が、程度の差はあれ思い当たる節があるのではないでしょうか。

それでも大半の人は、「社会参加」を学習の場として他者の目に映る「自分像」を修正しながら生きてきたわけですが、アスペルガーの人はそれができない。生き辛さは感じるけれども自己修正ができない。

そのできない情況が、言い換えれば「適用不全」の状態が見えないまま、自信喪失や欝や引きこもりへと追い込まれるだけでなく、病気(精神疾患)とみなされ要治療とされる。

はたしてそれって「病気」かなあ?と私は疑ったりするわけですが、いのさんの論文を拝見して、参考にさせてもらいたいと思います。感想はすぐには出せないかもしれないですが、よろしくです。

えーっと、ここまで書いたついでに、備忘風に付言すると、いまの高効率追求社会は、ほんらい“精神疾患”として治療の対象にしなくてもいいのに、産業社会に有用な人間を選別する必要から、そのような“病い”のレッテル貼りによって、不適用者を社会から隔離し、基本的に閉じ込め(収容)ておく、という仕組みになっているのではないか。

ずっと古い時代、たとえば、日本中世の生活史をのぞいてみると、瘋癲や風狂人がふつうに巷で寝起きしていて、通常の生業をおくっている町民や農民らは、彼らのズレの程度に応じてつき合い方を変えながらも、害さえ及ぼさなければおおむね親しい関係を維持していた。

でも先進国諸国では、産業革命いらい基本的に排除して閉じ込めながらも、最近は“閉じ込め人口”が無視できないほど増えたためか、閉じ込めた枠内での一定率の「雇用促進」を進めるようになった。

・・・まだ勉強したてでざっとした印象をでませんが、基本的にはこんなふうに考えています。

そうしたなかでいのさんも私も、アスペルガーなる病いの気(け)を強く感じながらも、「病気」の烙印の側ではなく「健全」のユニフォームを着た側にいて、彼ら“病める人”を対岸から理解しようと努めている。

でもこれは両サイドとも、本来的には不自然に区別された情態におかれていると捉えるべきであり、だからたとえば、いのさんの一種独特な職場では、そこで働く人たちに特徴的な“閉じ込められた”人の――あえて言えば、心身のハンディキャップを抱えた剥き身な人間像の――じつに文学的な有りようが、さまざまな形で見て取れる。

(~後略~)


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2013-06-11

(~前略~)

「アスペルガー症候群」のレジュメ、読ませてもらいました。
熱心に、こまかくまとめてあるのに驚きました。

いのさんの場合、仕事の一環でこの「発達障害」のことを学びはじめたとはいえ、あまりに身につまされる内容に突き動かされ、書いてある内容をとことん理解しようとして、「まとめ」に取り組まれたお姿が目に浮かびます。おかげまさで私も勉強になりました。

このレジュメを読みながら、私自身に該当する箇所を赤文字にしたり、参考になるところをアンダーラインしたりなどして、学習しました。おかげで、アスペルガー症候群のより詳しい全体像が見えたような気がします。

先日メールした第二信では、「障害」とすべきところを誤って「病気」という前提であれこれ書きましたが、アスペルガー症候群は「病気(精神疾患)」ではなく「精神障害」のうちの「発達障害」の一種であり、「広汎性発達障害」というカテゴリーに含まれるようですね。

ただ、精神医学の研究対象でもあるわけだから、私のような素人には「病気」も「障害」も大差ないように映ってしまいます。もっと言えば、ネットの情報を拾い読みながらふと感じ、いのさんのレジュメを読んでさらに深めた印象として、やはりアスペルガー障害というのは、近現代の精神医学が生んだ、学術サイドによる新たな「精神障害」の“認定”だな、という印象でした。

いのさんのレジュメを見てその種の印象をさらに深めたわけですが、そこからさらに、「はたして社会は、“障害”(前回メールでの“病気”あらため)のラベリングをする必要があるのだろうか?」と、あくまで素人の印象ではありますが、根本的な疑念がはびこりはじめました・・・私のアスペな頭に(笑)

で、以下はその疑念にこだわって筆を進めますが、アスペな自分のことはさておき、まずは、私の父親がいま思えばまさに、この「アスペルガー症候群」にぴったりあてはまる、言い換えれば、その“障害”の態様にすっぽり収まる人だった、ということから筆を起こしたいと思います。

自分の親のことを悪く言うつもりはさらさらないですが、子どもの目から見ても、父にははげしく「社会性を喪失」した精神的偏向がありました。

社交性が極めて低い、というか、極端に付き合いベタで、おなじ大人たちの中では妙にいかにも卑小で自信がなく見え、自分の考えはあってもそれを自信をもって主張することはまれで、たまに主張するときは、相手がだれであろうが、まるで子どもが我を通すように感情的な勢いでもって強引に突破しようとする傾向が顕著でした。

そのような父親をもった私もまた、そのDNAを色濃く受け継いだようで、対人関係をさばく能力は低く、考えは視野狭窄に陥りやすい傾向にあり、この傾向はよくないと思いながらも、いまでも全然抜けきれてはいません。要するに、三つ子の魂なのでしょう。

ということで、私は、高校2年生まで実家で父親と同居しながら、「オヤジはぜったいまともじゃないところがあるからきっと病気のはずなのに、周囲の人々はだれもオヤジのことを病人とは思っていない」と不思議に思っていましたが、世間一般でも、そのようなアンバランスな人格の傾向について、精神疾患(あるいは障害)を指摘した文物にふれたものに遭遇することはありませんでした。

いのさんのレジュメにあるように、アスペルガー症候群という「精神障害」の登場は、「1981年に、ローナ・ウイングがドイツ語の彼の論文を英語圏に紹介、その時に『アスペルガー症候群』という名称を初めて使った」ということなので、私はそのとき31歳。親元から離れて12年たっており、結婚して世帯として独立した年でもありました。

その頃になると私も、父について母がなかば諦め顔で言うように、また、周囲の人びとも当然のごとくそう認知しているように、「まあ視野狭窄で頑固なところがあるばってん根が正直で働きもん」という、田舎によくいる人物像の一人と思うことで、もはや、なにかの精神疾患または障害を抱えているにちがいない、という考えは持っていませんでした。

アスペルガーが日本でも注目を浴びるようになったのはそれからずいぶん経ってからだと思いますが、マスコミ報道を通じて「アスペルガー症候群」ということばを目にするようになったのは、私の場合、ここ4~5年のことです。

一種の適用不全の精神状態を病名化したもののようだな、というていどの誤った理解しかしていませんでしたが、いつの間にか世間では、この種の心理学的特徴が「発達障害」の一種としてひろく認知されるようになったようですね。

でも、どこかムリがあるような気がします。そのひとつは、シンドロームとしての網のかぶせ方がかなり広く、その境界もかなり曖昧な印象をうけるからです。でもまあ、ここで持論を展開するにはまだまだ知識不足なので、やめておきます(^^;

ただ、前回メールでもふれたように、英産業革命を端緒とした近現代のヒト・モノ・カネが高度に管理された産業社会において、有用な労働単位として人間を評価するにあたって、言い方は悪いですがどちらかというと、敗者復活的な再利用型のラベリング(レッテル貼り)として、このシンドロームが“健常者”の闊歩する産業社会に持ちこまれ、いままさに再利用ツールとしてもてはやされている、と睨んでいます。

というのも、アスペ本人は自分をそうだと自覚している場合は少なく、たまに“自覚”した「自称アスペ」がいるとしても、その“自覚”ははたして彼/彼女ほんらいの「よさ」を回復するのだろうか?父親の姿を想いだしながら、そう思わないではおれません。

ついでに言えば、「仮面うつ病」というのが最近、産業社会(職場環境)で注目されているようですが、これなどもはたして病気だろうかと思ってしまいます。むかし「新人類」などと揶揄された若者世代がありましたが、そこには「障害者」の認識はまったくありませんでした。はたしてそれとどこが違うのだろうと思ったりもします。素人には区別がつかないような繊細な“病い”なのでしょうか…?

ところで、いのさんの場合は「自分もまるでアスペじゃん!」という疑いから勉強しはじめたわけではなく、「アスペな部下」がやってきたので彼の「障害」の状態を理解しながら上手に指導してやるために学びはじめた、ということですよね。

じつはここでまた、いま思えば思いあたる節があるという人物の話になりますが、私もサラリーマンのとき、部下ではないですが、彼こそアスペだ!といえる年若い後輩と仕事をしたことがありました。

いのさんがまとめたタイプを参照しながら彼の分析をすると、タイプとしては、受動型>積極奇異型>孤立型という並びで3つのパターンが混在している、大卒で20代半ばの長身で痩身、つり目で顎のしゃくれた面長の青年でした。

知能程度はふつう。仕事は基本的にマジメだですが支持待ち型。感情の起伏はありますが基本的に抑制型で、切れることはまずありません。たえずなにかをぶつぶつ呟いており、漏れ聞こえることばの端々から察するに、どうやら常に、この情況ではどう対応すべきかどう返答すべきかについて、繰り返し繰り返し反芻しているようでした。

「三つの大きな症状」のうちの3番目「反復性の行動」にすっぽり該当すると思います。同じ3番目の「限局性の興味」に関してはさらに顕著で、彼の場合はプロレスの大ファンで、それだけならとりたてて珍しいことではないですが、なんと、だれそれのいついつの試合ではどうだったこうだったと、試合のデータが細かくびっしりと彼の記憶細胞に刻まれているのですね。

ほかには、テレビ時代劇の『木枯し紋次郎』が大好きで、この番組の多分すべての内容を、ライブラリインデックス仕様で明瞭に記憶していたようで、酒の席で40ほどもあるタイトルの一部を早口で紹介しては、喝采を受けていました。記録能力に秀でたサバン症候群の特性ももっていたのかもしれません。

で、彼の場合やはり、社会性とコミュニケーションの“障害”も、けっこう目立っていました。彼とは同じ職場で同僚となる前に、それぞれ別の地方事務所で同系列の仕事に携わっていて、すでにその存在は知っていたのですが(それゆえに、次の移動先で同僚になることを知ったときは内心動揺しましたが^^;)、あるとき私の所属事務所を会場として研修会があり彼もやってきたことがありました。

で、この会議がおわったあとで部下いじめが好きな私の直属の上司が、
「彼のおかげであんたの影がうすくなったね」
と茶化されました(苦笑い)

そうなんです。いのさんお見込みのとおり私も“その部類”と職場で見られていた時期があり、けっこう露骨に「職場内いじめ」を受けていた時期もありました(汗)

ま、ついでに言えば、このいじめに対しては、かねてから狙っていたあるチャンスを捉えて、かなりきわどい逆ネジをくらわすことで撃退することに成功しましたが、妙に横並びを気にするあの職場では「ちょっと変ってる」という私の見方が変わることはなかったですね。

まあ、片田舎のあの職場のにかぎらず、私みたいなアスペもどきがのびのびと屈託なく生きるのはなかなか大変です(笑;)

おっと話が横道に逸れましたが、私よりも格段に真性アスペな彼がいたおかげで、かろうじて私は“健常者”の土俵際で踏みとどまることができた(ただし、あくまで“周囲の眼を透して私自身を観察”したときにですが)、という因果な関係が、彼との間には潜んでいました。もちろん彼はそんなことは知るはずもないですが(笑;)

ということで彼の場合、社会性とコミュニケーションの“障害”もまた、(私ですら退いてしまうほど…苦笑)なかなかのものでした。ただ、そういう印象だけが強く残っているわりに、こまかく具体的なシーンは鮮明には浮かんできません。たぶん、彼はそういう人なんだ、という基本的理解があったからだと思います。

さてとここまで、かつて身近にた人物像を引き合いに出していろいろ書いてきましたが、父親だけでなく元同僚の彼の場合も、アスペという診断はもちろん“障害”の発想すらなかったという時代の話です。いまから20年ほど前のことになります。

ということで、アスペは昔からあちこちにたくさんいて、周囲のだれも、彼/彼女を「心に障りをもった病人(または障害者)」などとは思っていなかった、と私は思わないではおれないですね。

「あん人はあぎゃん人。ちょっと変っとらすばってんよかところもあるし、頭もわるくなか。どこかいかんとな?あれがあん人の性格ばい」と、父のことを母や周囲の親しい人が評したとおりの、たまにみかけるユニークな性格の、いわゆる個性的な人物にすぎないですね。私にとっては。

なので、「発達障害」というカテゴリーをこしらえ、ひろく網をひろげて(広義の)障害者に認定しようとする現代産業社会と、その要請にこたえる精神医学のいまの体系のほうが、じつはおかしいのではないか?・・・そう思わないではおれないです。

ということで、ここで言いたいのは、「専門家」がそう言うからといって、あるいはかりに、本人も主治医からそれと診断されてそのことを自認しているとしても、上司としては、いまでいう「発達障害」がおそらく大昔からそうであったように、一人のやや特異なキャラの持ち主にすぎない「健常者」として処遇すべきではないか、ということです。

でも、どうしてもそのキャラそのものが「障害」とみなしたい精神医学関係の「専門家」がいるようですね。ただ、私としては、素人であることをわきまえながらもあえてこう言いたいですね。

(ア)だれでも程度の差はあれそれなりに、社会適応上の不得手な分野を持っているときに、生育過程のなかで気づきや自己矯正の努力を重ねながら、克服したり折り合いをつけてきた結果今日があるわけです。だれでも例外なく、と言っていいと思います。

(イ)他方で、アスペルガー障害とみなされる人びとは一様に“不器用すぎる”印象を与えることがあっても、それは彼らの個性であって“健常者”と基本は同じであり、克服すべきなんらの“障害”もそこには存在しない。つまり、その種の“障害”を克服してめでたく“健常者”になる、ということ自体がそもそもありえない。

(ウ)あるのはただ、現代の高度な産業社会からの要請として、一群の使いづらい個性の持ち主たちを“良質”な労働者群から選り分け隔離しておくための、「アスペルガー症候群」という名のレッテル貼りでしかない。そしてそのうえで、特別な配慮(あるいは制度)のものとで、有用な者を再選別して一定割合の範囲内で雇用してあげる、という仕組みが最近できあがった。

(エ)その背景には、労働者群をこまかく選別しすぎた結果、有用性が高くない非稼動人口が増えすぎた状況にいたり、そのひずんだ事態にたいする調整としての雇用割り当ての動きがある。

・・・と、アスペな私は、ヒューマニスティックな見方とはかなり距離をおいた、極めてうがった見方をしていおります(微笑)

ということで、まだまだ試論の段階ですが、アスペルガー障害に関してはそのような淡々とした理解(というより“理会”)でいいのかな、と自分的には思っています。どうか、いかにもひねくれモンのアスペだなあ・・・と苦笑しないでださい(笑)

しかしまあ、今回はいろいろと勉強になりました。さらに“理会”をふかめて、いずれは書き物のネタに使わせてもらおうと思います^^

ちなみに、いのさんの部下のことを直接ネタにするような非礼なことはしませんが、その人のことなどについて、なにか特徴的なことなどあれば、今後の社会勉強の一助としてお聞きしたいなと思います。もちろんムリには申しませんが、よろしければ。

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以上、ながくなりましたが、いのさんからいただいた「アスペルガー症候群」岡田尊司幻冬舎新書」のレジュメを読んでの感想でした。ではまたなにか、アスペな物書きモドキの興味をかきたてるようなお話があれば、教えてください。

(~後略~)


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2013-07-03

(~前略~)

アスペに関しては、現代の高度に組織され管理された産業社会が“発見した”(=作り出した)精神障害という考えは、私のなかでますます確信に変わりつつあります。ま、そういう情況です。
 
(~後略~)


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